瞑想の際には、「メッセージ」を手にいれようと試みる事は、避けねばなりません。
始めから神秘的な声を聞こうと求めたり、どんな種類であろうとも、
自分から「ビジョン」を求めるものではないと考えています。
もしも、それを意図的に行うのなら、それは、瞑想から離れて行ってしまいます。
どれも皆「起きる」のであり、そしてそれを冷静に「観察する」ことが、
瞑想において何より大切な事です。
より深い、自分の奥に広がるものと触れる事が、大切なのです。
例え冷静に観察をする事が出来ず、主観的になってしまっても
そして「そこ」に、どれだけ重要なメッセージが含まれ、どれだけ感動的であったにせよ、
そこから超越していくことが瞑想の行先であると私は考えています。
ですから「こうでなくてはならない」という錯覚を、まず廃するために、
私は毎回自由な瞑想を提案しています。
誰かの経験と比べたり、まして、 何かが見えたり聞こえたりしても
それらからは「エッセンス」を得ればいいことです。
神秘体験を追い求める事は、ある意味非常に無意味でもあるのです。
しかし、そういったビジョンやメッセージに憧れる時があります。
そしてそれが現れない事に対して、がっかりしてしまう人も
中にはいらっしゃるかもしれません。
そういった感情を避け、固定概念を避けるために、
あえて私自身の瞑想における詳細な感想は、ほぼ、掲載しないようにしています。
シャーマニック瞑想の自由さは、そういった私の考えから生まれたものなのです。