自分を大切にする事と、被害妄想は別の話。
過剰な被害者意識は、
ただ、「自分が責められない」為だけに、
いもしない「加害者」や、
ありもしない「自分が受けた被害状況」を、
脳内で創りだしてしまうことがある。
そして恐ろしいのは、
過剰な被害意識に陥っているといつの間にか、
「自分が作り出した架空の事実」が、
頭のなかで「本当の事実」と置き換わってしまうこと。
人は傷つく。
それはスピリチュアリストや占い師でも同じ。
しかし傷つくことを過剰に恐れると、
客観的な視点をエゴを守ることだけに使いはじめる。
自分は「傷つく必要はない」「無用に傷ついた」
「自分を守ることは大事」だと、
それらしい理由をうまく引っ張りだす。
自分の尊厳を守ることは大切。
けれど「自分の尊厳」とは、
「傷つきたくない自分」を「正当化」する権利ではない。
にも関わらず、過剰な被害者意識は目をくらませる。
まるで、嘘がバレるのを恐れる幼い子どものようだ。
私も恐れる。傷つくことは誰だって辛い。それでも。
「右の頬をぶたれたら、左の頬を差し出しなさい」
「いびつに発達したエゴを捨てる学びのチャンス」は、
大抵の場合、受け入れにくいかもしれない。
もし、光に照らされるのを恐れない自分でいたいなら。
迷妄を払う為に右の頬をぶたれたら、
さらに目を覚ますために左の頬を差し出す勇気を持つ努力をしたい。
自分の尊厳を守るということ。
それは大いなる光に照らされて心の底まで覗きこまれても、
恥じずに済む自分でいること。
それが「自分」を守ることではないかと、私は思うのだ。